残り少ない平成ロマン

平成約30年を振り返って残り少ない平成の命の意味を考え。
様々な人がどんなロマンを描き、実現してきたか、諦めてしまったか?
それは、21世紀の喜劇と悲劇
情報技術とネット・スマホが行き着いた終着駅を哲学する。

kokoro って何?

こころなのか、精神としてとらえるのか、まず、それが気になる。
こころは心 心臓ではないのは周知の事実
中心といったほうがわかりやすいかもしれない。
ひとの中心であり、大切なものであり、無形のもの
心が痛いと胸が痛むのは、どういうこと?
こころはハートで、熱くなる。 ゆえに、恋したり、愛したり、傷ついたり、いろいろ
大変なわけ
一方、精神はこころとどこが違うのか?
精神は、妖精みたいな神がこころに宿っているという感じ?
精密であり、精巧であり、精選された神
なんで「神」?
人は元々神であったという話から、神の資格を何かして、神でなくなったという。
どうも相性の悪い熟語ではないか、「精神」
仮に聖なる神であれば、しっくりいくが、聖でなくて、精である。
精は出すもの、エネルギーの一種、ゆえに、神ってるというのはエネルギーの放出が尋常ではないこと
その精神が異常をきたすと「精神病」のレッテルを張られて、病院へ行こうという流れになる。
こころがハートであれば、精神はスピリッツ、魂(ソウル)であり、恋しないが、叫ぶ。
まあいいか、こころでも、精神でも、病(やまい)でも病気でも
傷つくのはこころであり、精神は別に傷つくわけない。
こころの傷が精神病の初期段階というか、入口? 原因? 本質?
傷がふかいと怪我をする。なるほど、我(自分)が怪しくなるわけで、こころの傷に注意することが肝心であるという。肝(きも)は内臓、心(こころ)は内臓ではない体の一部。だれでも、こころを持っているのに対して、精神を持っているとはいわない、精神は漂っている。妖精のように体の周りでハエ、WIFIのように。
病気になるのはこころであり、病気にさせるものが精神では。これって何か可笑しい? わらっている余裕はない、病気なんだから、こころが。
どちらかというと悲しい事実、心の病。なぜなら精神というWIFIが異常をきたし取りつくわけだから。
たとえば、こころが落ち込む、沈む、気力がでない、なにもしたくなくなる、できない、無理してもできない、これって、最近問題のうつ病じゃない。
これは心の病。 うつ状態が続けば、植物のようにm動物の資格をうしない、自殺にに至る怖いm恐ろしい病気。
よくネガティブな人がうつになるという。物事を悪い方へ考えてしまう性癖
最悪の事態に備えているひとは、うつでなない、慎重で緻密な繊細な人。これは病気ではなく、むしろ美徳。
ポジティブであればいいのか? 物事を前向きに、失敗を恐れない、勇気ある人。これは病ではないのか? これは自己PRになるのか?
共通しているのは、どちらも、ネガもポジも事実を歪めているということ
ネガは悪く、ポジは良くちょっと化粧加工して事実を受け止めている。とらえ方の違い。所謂、悲観視か、楽観視の差
それなのにである。ネガが「うつ」で病気扱い。ポジは前向きで好印象な積極人間、これって、納得いかない不平等
むしろ、「うつの」」レッテル・ネガ人こそ物事を真剣に考えているのではないか?
積極性の評価を得ているポジこそ、いい加減に事象をとらえ、大雑把に考える雑な、繊細さに欠ける人といえないか?


ポジも過ぎれば「躁」になり、抑制できなければ、躁鬱病。もっと深刻な精神病ではないか、狂人への道、自殺への道も「うつ病」より近くなると思わないか?
モーターが回って止まらないポジティブな嵐は抑制が効かず、エゴで、超好奇心にして、超活動のお祭り騒ぎを演じ、その後の反動で、一気に落ち込む、急降下、繊細な「うつ」とは異種の無気力・無活動の植物化、その循環性に苦しむ病
「躁鬱」に陥る罠こそ、現代の過激な競争社会を象徴する、歯車の狂った景気循環に似ている。躁も苦しく、鬱も苦しい二重苦であります。


昔は被害妄想、今では統合失調症と改名
昔の名前の方がわかりやすい。統合するって何を?失調って何を失うこと?
医学は、「病名」を患者にとって分かりにくく、学術用語で誤魔化しているのでは?
自分が被害を受けているという誇大妄想の方が病状をわかりやすく表現している。精神を統合する機能が失われた調子、その結果、見えないものが見えたり、聞こえないはずの声や音が聞こえる、それこそは妄想でしょ?
躁鬱との因果関係はあるのか、ないのか、それは研究としてしか面白くない。
先天性と後天性、生まれ持っているものが、幼児期、自我覚醒、反抗期、自己の発見の過程で、プラス(+)かマイナス(―)かの性癖と経験のつづれ織りで、うまく切り抜けるか、誤魔化すか、真面にぶつかるかが分岐点になる。
その後の社会(他者)との関係性で決定的になる。


知的障害など精神に関わる難しい障害とは、全く違う。
深刻なる精神機能の不能、欠落
精神疾患は機能の問題ではない。気分や情緒の問題である。
健常なる普通の人がかかる病であり、日常生活に潜む病とはいえないとも考える。
所謂、「茶飯事」
どんな飲み物、食べ物、嗜好品、生活習慣、行動特性に関わる、きわめてよくあることなのである。


その原因は、過度のストレス、ハラスメント、災い、虐待、いじめ、日常性の中にある。
それらを晴らすのに、酒を飲み、タバコを吸い、非合法の薬、ギャンブル、異性遊び暴力で、非日常性で一般的によくある解消法を実践している方々こそ、心が病んでいるのではないでしょうか?
こころや魂は人間の大切な資源であり、それをどう使い、育むかで、その人の人格が決まるのではないか?
世渡りとは、社会とのかかわりであり、その関係性で、ステレオタイプに形成する関係性がなぜ病ではなく、日常なのか?
非犯罪であれば、何をしてもいいのか?
単なるマナーとか、エチケッチで誤魔化すことで、社会の闇は深くなるのではないか? パーティーピープル、ハロウィン、インスタグラム、SMS、放置していていいのか? リムジンで女子会、男子は一人飯、オタク、そんな社会はクールではない。
真摯誠実に正面から施行し、行動する良き人がなぜ、精神病というレッテル、障害というレッテルを貼られるのか?
ここに問題提起したい。
ただただ、要領が悪く、空気が読めないだけで、こころは傷つけられる不条理
その受け口がメンタルクリニックというビジネスか、大学病院という実験室しかない、その中間であり、客観的に当たり前の病気を治すことを第一義に置く機関なり、病院はないのか?
こころの病は、病ではない病。日常の中で誰もが経験することに原因が散在し、そのきっかけは、些細な罪なき、悪意さえない、第三者の一言、行いにある。
そして、高齢者や社会的弱者との相関関係は無視できない。
四人にひとりの病、そうかもしれない。 新橋の居酒屋の常連さんと変わらない。